コーラル
アンティークの蓄音機から、美しい女の声がする。 この機械をくれた人は、もういない。
アレルーヤ アレールーヤ
黒い円盤は、飽きずにそれを繰り返す。ラベルには歌手の名前が書いてある。昔の持ち主の趣味らしい。「掛け過ぎると擦り切れるからね。」そう言い置いて、どこかへ消えたその人は、その黒い円盤と同じものを、どうやって複製したのかは知らないが三枚置いていってくれた。
アレルーヤ アレールーヤ
この単調な繰り返しが、けして嫌いではない。 放っておくと一日掛けている。ただ小一時間で終わるので、針をいちいち縁に持ってくるのが面倒といえば面倒。さらに、放っておくと箱に付いたハンドルも回しなおさなければならない。 そんな、面倒が、けして嫌いではなかった。 円盤の上に開く花のような金属のそれをキレイに磨くのは、好きだ。磨けば磨くほどその音ははっきりと、温室の中に響き渡ってゆく。時々、茂みにいるアラティンガがビックリして飛び出す。そんな光景を見るのが好きだ。
「本当はハレルヤなんだよ。」 「え?」 「この歌詞。本当は、アレルヤじゃなくて、ハレルヤ。」 「はあ・・・。」 その人は時々どうでもいいことを教えてくれた。 「hの音が抜けちゃうんだよ。彼女。母語のせいかも知れないけど。」 「はあ・・・。」 「つまらないな、もっと興味津々て顔してよ。」 「無理です。」 「じゃあ話題を変えよう。」 「・・・・・。」 「この歌詞意味は『主をたたえよ』。」 「・・・・・。」 「・・・・・、はあ、ダメだね。」 「途中でやめるのは卑怯ですよ。先生。」 「ミサ曲だよ。それくらい知ってるだろうに。君も人が悪いね。」 「それなりに、知ってましたけど。」 「ほらみなさい。」 「・・・。」
ふと、そんな他愛も無い会話を思い出す。 確かに、円盤の中央には「Hallelujah」と書いてある。 「・・・・・ハレルヤ。」 なんだかおかしい。 この何百年以上も前の女が繰り返す「アレルヤ」と言う響きに慣れすぎてしまったのか、自分で呟いた「ハレルヤ」と言う響きは、何とも奇妙だった。 と、そんなことに気付いたところで、今更誰に言うことも出来ない。 例えば、あの時。秘密でも打ち明けるようにこの曲の本当の名前を教えてくれた時、もっと訊いていればよかったのか。 今となってはもう遅い。
アレルーヤ アレールーヤ
相変わらず、彼女の声はぴんと張った絹糸のように、しなやかに木々の間を縫っていく。 もうすぐ硝子のの向こうは夕暮れ。 パキラが花開く甘い匂いが立ち込めてくるので、蓄音機を止めると、机の上を片付けて、温室の扉をかちりと閉めた。 自分だけの、楽園。 蓄音機をくれた前任者は、行方知れずのまま。 誰も探そうとしない。 「どこに行ったのか。」 と、訊くと、この施設の誰もが、口を閉ざす。それが少し気に入らない。ただ自分の責務といえば、この温室の管理と、その人が置いていったアンティークの手入れ。
無機質な廊下で各自の部屋へ向かう人々とすれ違う。 軽く会釈をくれる人もいれば、どういうわけか知らないがあからさま好奇の目を向ける輩が少なからずいて、そんな時は、無関心なフリをして、廊下に配置されたモニターに目をやる。デジタル画面に容赦なく映し出される、各国の言葉のニュースは、どれも殺伐としていて、吐き気がする。馬鹿馬鹿しいとさえ思う。願わくば、この楽園が壊されなければいい。時折、それすら危ういのではないかと、不安になる。この温室で植物に囲まれて息絶えるなら、それなりの覚悟はできているけれど。 その時は、あの音楽をかけよう。
アレルーヤ アレールーヤ
主をたたえよ。
なんて、滑稽なんだろう。せっかく作った神の箱庭が、今では屍の山。
アレルーヤ アレールーヤ
一度調べたことがある。 「レクイエム」と言うものがあることを。それを言うと、「哀しい曲は好かないんだ。」と、笑顔で一蹴された。
アレルーヤ アレールーヤ
その人がいなくなった今でも彼女は毎日繰り返す。
アレルーヤ
− ― ― ― −
最近、施設内が騒がしい。 聞くところによると、子供を一人引き取ったらしい。 何の気まぐれか、殊勝なことをするものだと、見たことも無い、この施設の支配人を鼻で笑った。そもそも、自分のような者をここに置いておくのも酔狂としか言いようが無いのだが。
アレルーヤ
日課のように、朝日のきつい中で表を磨くと、円盤に針を落とす。
アレルーヤ アレールーヤ
と、不意に妙な視線を感じて入口を振り返ると、随分と貧相な子供が裸足でぼんやりと立っていた。 どことなく覇気の無いその姿に、言いようも無い苛立ちが募る。 椅子に座ったまま少し睨んでやると、睨み返しているつもりなのか、前髪の下から銀色の目が覗いた。 貧相な身体。荒んだ目。おどおどした態度。 ああ、この子供が気まぐれか知らないが拾ったそれかと、なんだか納得がいった。 手招くと、警戒と言う言葉を知らないのか、タタタとこちらへ寄って来た。 「孤児」にさしたる同情めいたものは抱かない。自分も両親を知らない。自分は生まれてこの方、この施設で「先生」に教育された。ただ、それだけの差だ。
「お兄さんはやさしいね。」 「・・・・・やさしい?」 気まぐれに手招いたことを指しているのか、少々面食らった。 「だって、他の先生は上手く出来ないと叩くよ。」 「俺は先生じゃないからね。」 「探検してると怒られるよ。」 「・・・・・ココは遊び場じゃないからね。」 そもそも、こんな子供に監視役をつけていないのがおかしい。 「でもお兄さんは入れてくれたでしょう?だからやさしい。」 「ああ、・・・・・そう。」 別にやさしくはない。ただ、わざわざ引き取った子供がどんなものか興味があっただけだ。 「君は何をしているの。」 「今日は、走って、重いの持ち上げて、泳いで、なんだかぴょんぴょん跳んだよ。」 「・・・・・へぇ。」 この貧相な子供に筋力トレーニングでもするつもりか。今からなら間に合うだろうが、随分と長期計画のようだ。 「お兄さんは何の先生?」 「俺は先生じゃないよ。温室の管理人。」 「・・・・・ふうん。」 そう言って高い硝子張りの天井にきょろりと瞳を巡らす。
アレルーヤ アレールーヤ
「これは何?」 「蓄音機。」 「ちくおんき?」 「音楽を鳴らす機械だよ。何百年も前のね。」 「この歌が好き?」 「別に。これしかないだけだよ。」 1983年録音、マドレーヌ教会、パリ。いったい、どこからこんなものを見つけてくるのか、かすれた文字に少し気が遠くなる。 「ここに歌のお姉さん入ってるの?」 少し頭痛を覚えながら、首を振った。子供の好奇心であろう事はわかるけれど、それについていくだけの精神力は、残念ながら持ち合わせていない。 「黒い円盤があるだろ。それが声を覚えているんだよ。」 そっけなく答える。それでも少年は諦めが悪いらしく、机の上のものを見てコロコロと表情を変える。「興味津々の顔」とは、多分こういうことなのだろう。砂時計をひっくり返し、アンティックドールのスカートをそろそろとめくって、途中でやめる。そしてなぜかこちらをじっと見る。荒んではいても、まだ子供の目。目に映るすべてを飲み込むような、大きく開かれた目。 「似てる。」 「何が。」 「この人形と、お兄さん。」 「・・・・・は?」 開いた口が塞がらなかった。 「だって、顔が変わらない。」 カチンときて手を上げると、子供はその手の先をするりと抜けて、池の縁に置いてある揺り椅子までタタタと走って行ってしまった。まだ、先生がこの机の椅子に座っていた頃、あそこは自分が座っていた。無駄話をしながら、ハレルヤを聴いて、温室を見上げる。あの場所から見える温室は最高なのだ。形の違う色々な葉が、視界を遮って、時々その色々な緑の中に花の色が混じる。目を落とせば、池には睡蓮とロータス、ホテイアオイが浮かんでいる。 「キレイだね。」 「そりゃあキチンと世話しているから。」 「何で?」 「ここは箱舟なんだ。」 「舟?」 「そう、舟。」 「・・・・・・・・・・・。」 舟と言う言葉に、ピクリと彼の口の端が引きつる。座った揺り椅子の肘に、どこか縋っている様にすら見えた。静かに近づくと、かすかに耐えるように震えている。 「どうかした?」 「・・・・・違うよ。」 「何が。」 真青な顔のまま椅子の上で縮こまっていく姿が、何ともこちらを苛立たせる。 「舟は、暗くて寒くて、狭くて、もっと哀しい。もっと寂しい。」 くぐもった声が、伏せた顔の下から聞こえた。膝を抱えた手に触れると、驚くほど冷たかった。 「ココは舟じゃない。」 「・・・・・そう。」
おびえるそれに、言葉が見つからない。子供の扱いは、よくわからない。
「ノアの箱舟を知っている?」 しばらく背中を撫でていてやると、少しほぐれたように、顔を上げた。すかさず聞くと、彼は首を横に振った。 「ずっと昔に、世界が滅びる前に、神様が作らせたんだ。」 「こんな?」 「・・・ちっと違うけれど。大きな舟を。それに番いの動物や植物を入れて、水に沈んでいく大地から逃げ延びたんだ。わかるかな?」 「・・・・・それで?」 「ココで管理してるのは絶滅危惧種の植物や動物なんだよ。彼らを乗せたココは、さしづめ箱舟。」 誰かが、興味本位で作った、生きた標本箱。ごくまれに、気味悪そうに、この部屋を覗いていく人がいる。誰も愛さないのなら、せめて、自分が愛してやろうと、極彩色の鳥や、木に這うグロテスクなトカゲに返ってこない分かっていながら、話しかける。時々この部屋にいる自分さえ、何かの標本ではないかと錯覚する。先生は、何も教えてくれないまま、消えた。 中途半端な守り人は、枯らさないように、絶やさないように、最新の注意を払うしか出来ない。 「じゃあ、ココにある木や花は、外には無いの?」 「多分ね。」 「動物も?」 「多分。」 「ふうん。」 途端に視線を巡らすのだから、子供はわからない。わかりたくも無いけれど。 しばらくカラパの陰でこちらを伺っていたアラティンガが、鮮やかな羽根をしならせて肩に降りた。 「モンド、モンド、ゴハン。テエラ、テエラ、ゴハン、ゴハン。」 この鳥は三つしか知らない、言葉を、馬鹿みたいに繰り返す。 嘴を池の水で洗って、少年の腕にそれを、納めると、人馴れし過ぎたその鳥は、難なくその闖入者の腕に短い首を絡げが。見たことが無いのか、彼は彼で少しぎょっとしている。 「ビスケット、食べる?」 「・・・・ビスケット?」 「ドルチェ、お菓子、甘いもの。」 「いいの?」 「どうせ、宇宙食みたいなレトルトばかり食べてるんだろう?」 多分、計算し尽くされたメニューを、飽きるほど毎日。 「・・・・・・うん。」 ばれた所でさしたることにもなるまい。ビスケットの一枚くらい。そう思って机のうえの赤い缶から二枚出して片方を少年に。もう一つは半分に割って欠片をかじりながら、猛半分を鳥の口の中に押し込んでやる。一瞬上を向いて、がさがさ音を立てながらそれはあれよと言う間に吸い込まれた。 「モンド、テエラ、ゴハン、ゴハン。」 「今日はもうダメ。お前は木になってる果物を食べなさい。人の食べ物に慣れるのは良くない。」 「モンド、モンド、テエラ、テエラ、ゴハン。」 「ああ、もういい。遊びに行ってろ。」 少年の手から鳥を受け取ると、乱暴に中へ投げた。察したのか、そのキレイな羽根を広げたそれはアバレマの幹のずっと向こうに消えた。 少年はさして大きくないビスケットを、大事そうにちまちまとかじっている。甘いものがそんなに珍しいのか。可哀想だとだとは思わないが、惨めだと思う。
アレルーヤ アレールーヤ
神の箱舟の、なんと皮肉な事。外の不穏な風にいつ壊れるか知れない脆弱な箱舟。
アレルーヤ
それでも、レコードは繰り返す「神をたたえよ」。
「モンドって言うの?」 「・・・・・うん?」 随分と時間を掛けてビスケットを食べた後、会話はやぶから棒に始まる。 「名前。鳥が呼んでたよ。それともテエラ?」 「モンドは俺の先生の名前。テエラは、そうだね、先生が上手く言えなくて間違ったまま憶えさせたんだ。」 「本当の名前は?」 「あとで廊下に出してる表札を見てごらん。それより、君の名前は?」 「しましま。コレ。」 ぺらりとシャツの袖をめくって見せられたのは、二の腕に焼き付けられた、趣味の悪いバーコードだった。ただ固体を認識するためだけに作られたそれを、「名前」とは言いたくない。 「コレは名前じゃないよ。」 「じゃあ知らない。名前、ない。」 多分、それは、彼らにとってこの少年は識別できればよいだけで、名付けをして、情を湧かせる事を恐れているということなのだろう。多分。自分ももう、誰も呼ばない名前をずっと前から持っている。時々間違ったそれを、鳥が呼ぶだけで。 「名前を、あげようか。」 「名前ってもらえるの?」 「良いんだ、思い込みだから。」 実際、ココにあるものには大体名前が付いている。先生が、勝手に付けていったのを、憶えている。名前をつけると、新しくその命が生まれ変わるのだと、理解しかねること言っていた。学者のくせに、無理矢理な理論で人を振り回す、困った人だった。 「さっきお菓子が入ってた缶は”ドルチェ・ヴィータ”、しゃべる鳥は”コロレ”、蓄音機は”ファリネッリ”、池に泳いでるのは”ヌアージュ”、なんだったらココの植物の名前をあげてもいい。カラパ、アバレマ、フタルムス・・・色々ある。」 ギッと揺り椅子を鳴らして、少年はくるっと見回す。 そして、蓄音機を指差した。 「あれがいい。」 と。
アレルヤ アレルーヤ
「あんな風に呼ばれたい。」 女の声に、母の声を重ねでもいるのだろうか。よくわからないけれど。あんな風に優しく呼ばれた記憶がないのだろう。 「じゃあ、君は今日からアレルヤだ。いいかい。憶えておいで。こう書くんだ。」 池で濡らした指で、石畳にHallelujahと書く。 「本当は、ハレルヤとも読めるんだよ。」 「二つあるの?」 「そう。どっちがいい?」 「どっちが本当。」 「どっちも本当。」 「じゃあ、二つちょうだい」 「ダメだよ。呼ぶ時に困ってしまうから。」 「・・・・・じゃあ、ハレルヤは違う子にあげるから。僕はアレルヤにする。」 はて、引き取ったのは一人だと聞いたけれど、他にもこんな子供がいるのだろうかと、首を傾げる。けれど、さして興味も湧かなかった。 柄杓に水を掬って、再び手を濡らす。 少年の前髪を掻き揚げて、水を落とすと面食らったようにこちらを見た。 「目を瞑りなさい。」 「・・・・・。」 何かを悟ったのか、少年はあっさりと、目を瞑る。 額に垂らした水をなぞって、人差し指を細い鼻筋に滑らせる。くすぐったいのか眉間に少し皺がよるのがおかしかった。 そのまま、鼻の先を通り越して、唇まで指を下ろす。乾いた唇は少しビスケットに匂いがする。 「言ってご覧。君の名前は、アレルヤ。」 「アレルヤ。」 「そう。」 「アレルヤ。」 「そう。キチンと憶えておいで。」 目を瞑ったままこくりと少年はうなずいた。アレルヤと言う名前の、小さな少年。 その名を呼ぶたびに、いるはずの無い神を讃える皮肉な少年。
アレルーヤ アレールヤー
古びたファリネッリが、彼の名前を呼ぶ。
「また来てもいい?」 日が落ちて、温室を出ようとすると、少年がこちらを見上げて言った。 「いいよ。木の葉をむしったりしなければね。」 「またくれる?おやつ。」 本命はそっちか。 「・・・・・じゃあ、それまでに違う味のを用意しておこうか。」 「すごいね。色々あるんだ。」 無邪気に笑って、ありがとうと言うと、手を振り駆け出しながら、人垣の中に消えていった。
「・・・・・アレルヤ、ね。」
けれど、少年がビスケットを食べに来る前に、箱舟は、沈んだ。
fin
15/nov/2007
色々と設定が明らかになってしまう前に書いてしまえ。そして、上げて忘れてしまえ。 ・アレルヤ(及びハレルヤ)の名付け親は、実はティエリアだったらいい。うそ、本人だ、付けてるの。 ・ティエリアは年を取らなかったりする。彼の名前の語源がterre(terra)だったらもっといいな。そんなわけないけど。昔は地球にいて、土いじり担当とか。(ガーデニングと言え。) ・当のアレルヤは幼少の別のトラウマが強烈過ぎて、こんなこと、憶えてないけど、ティエリアは何気に憶えていたりする。 ・・・・・・・・だったらいいな。だったらいいなをするのが二次創作です。多分。 ※洗礼はこんな風にはやりません。
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